数学者のライフスタイル (日曜数学 Advent Calendar 2018)
日曜数学アドベントカレンダーのリンクから来られた方々、
こんにちはパヤシと申します。
先日14日目は龍孫江様の「可換環の次元・深度とビッグマック予想」でした。
今回私は『数学者のライフスタイル』というタイトルで投稿させていただきます。
1. はじめに
このアドベントカレンダーのタイトルにもあります「日曜数学」。これの意味については提唱者でありますTsujimotterさんの記事を引用させていただきます。
日曜数学とは「興味の赴くままに趣味として数学を探求すること」である
「日曜数学者」はこうした行為を日常的に行っている人を意味する
要は「数学を趣味でやっている人」な訳ですが、ではこの「趣味」とはどういう意味でしょうか?辞書(デジタル大辞泉)には
仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。「趣味は読書です」「趣味と実益を兼ねる」「多趣味」
とあります。すなわち職業:数学者ではないものはすべからく日曜数学者となりうるわけです。今回は過去の偉大なる日曜数学者について取り上げたいと思います。
2. 日曜数学者について
実は私自身は職業:数学者より日曜数学者の方が圧倒的に多いのではないか?と考えております。職業としての数学者としてぱっと思いつくのは
・アカデミックのスタッフ(教師・講師含む)
・プログラマー・エンジニア
といったところです。他の理系分野でも言える事ですが、分野の中でもお金を稼げる領域はごく一部に限られています。基礎的な純粋数学でお金を稼げる人はアカデミックの一部だけかもしれません。
そういった環境の中、日曜数学者という存在は数学という分野を下支えしている要素ではないでしょうか。数学は他の理系分野と異なり紙と鉛筆(+PC)で始められる余地があり、趣味として研究する者にとって居心地の良い世界であると感じます。
現に偉大な数学者として歴史に名を刻まれている方々で、数学以外で生計を立てていた者が数多くいらっしゃいます。今回はその中から
・ジェロラモ・カルダーノ
・ウィリアム・ローワン・ハミルトン
を紹介したいと思います。
3. ジェロラモ・カルダー
ジェロラモ・カルダーノは16世紀のイタリアの人物で、代数学で業績を挙げており、著書『偉大なる術(Ars magna de Rebus Algebraicis) 』にて3次方程式で世界で初めて虚数の概念を取り入れた事が有名です。(下が『偉大なる術』タイトル)
これだけですと何かこうスマートな感じがするのですがこの方、当時のイタリアで最大の医術者、最大の自然哲学者、最大の錬金術師、最大の占星術師、最大の手相術師、最大の魔術師、そして最大の賭博師と呼ばれたそうで、今の感覚ではかなり胡散臭い印象を与えてくれる方です。
ルネサンス期の大学の博士という事でファウスト博士を想像するのですが、カルダノ自身アヴェロエス派ポンポナッティの魔術継承者という事で負けていません。16世紀における「自然科学」は「自然魔術」であり錬金術や占星術から生まれた時代です。
このカルダノ以後ヨーロッパの近代数学が始まったとされています。当時の数学は一種の<術>でありその技を蓄える事が力の象徴に繋がり、しばしば公開試合が行われ多額の賞金がかけられていたそうです。これ以降近代への出発、<術>から<学>への転換が進んでいったそうです。
ちなみにこの公開試合のネタが上記の3次方程式でここでもドタバタ劇があったのですが、ここは森毅作『異説 数学者列伝 』の「魔術競数理方程(うでくらべかずのあやとり)」を読んでみてください。
ちなみに本人は自分自身の事を賭博師と思っていたみたいで著書『さいころあそびについて(Liber de ludo aleae)』でイカサマ方法を紹介しており、そこでは確率論について触れております。「ギャンブラーにとっては、全くギャンブルをしないことが最大の利益となる。」という名言を残しているそうです。
4. ヨハネス・ケプラー
ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler) 写真はデジタル大辞泉から引用
ヨハネス・ケプラーは16~17世紀のドイツの人物で、天体の運行法則「ケプラーの法則」を唱えた事で有名です。ケプラーの法則は代表作であります『新天文学』(1609年)第1,2法則が収められておりますが、この時のケプラーの肩書は「ルドルフ2世宮廷付占星術師」でした。
南ドイツに生まれたケプラーは、祖父は市長を務めるほどの人物であった一方父親は財産を蕩尽する輩だったみたいで一生貧乏から逃れられなかったそうです。
マウルブリン修道院→チュービンゲン大学神学部という当時神学の書生として典型的な道を進んでおり、ケプラー自身は牧師になりたかったそうです。ただ教養課程でミヒャエル・メストリン(1550-1631, ドイツの天文学者)と出会った事でその後の運命が変わる事となりました。
メストリンから教授されたコペルニクス派(地動説)の宇宙体系を学び傾倒していったケプラーは神学者(プロテスタント)の反感受けた結果、希望する牧師を提示されずオーストリアのグラーツの高校で数学と天文学の教師として働く事を求められました。
この語の教師時代に書き上げたのが『宇宙の神秘』(1596)でケプラーの多面体太陽系モデルはこの時お披露目となりました。
ケプラーの多面体太陽系モデルと太陽近傍モデルの拡大図
ケプラーは著書をティコとガリレイに贈っておりティコはかなり興味を示したそうです(一方ガリレイは…推して知るべし)。
この後グラーツの町はイエスズ会の支配下に入り、新教徒であるケプラーは迫害の対象となってしまい出ていくことを余儀なくされますが、この時手を差し伸べてくれたのがこのティコであります。
ティコ・ブラーエ (Tycho Brahe) 写真はwikipediaより引用
ケプラーは帝都プラハに移り住み、当時占星術師と錬金術師に傾倒していたルドルフ二世の元「帝室天文学者」として務める事となります。
間もなくティコは亡くなるのですが、このティコが16年という長きにわたり観測してきたデータ解析をケプラーに委託しました。このデータを基に理論家たるケプラーの手により整理・分析されたことがケプラーの法則発見へとつながりました。これにより地動説が強化される大きな転機を迎えたのです。(ティコ自身は地動説たる証拠を提示できなかった)
代表作であります『新天文学』では楕円の解析が登場し、それを通じて<無限小解析>が胚胎しました。楕円の「焦点」という用語もこの時期のものです。ケプラーにとってこの時期が最も安定していたのですが、残念ながらルドルフ二世が逝去された後は俸給を満足に払われることが無くなり、オーストリアのリンツで数学教師の職に就きました。しかし主な収入源は占星術師だったみたいです。
そして1619年に神学と科学、現実と空想が交錯した『宇宙の幾何学的構造論的和声学的心理学的天文学的調和』全5巻という大作を著わされます。ここで「ケプラーの第3法則」が述べられております。
ただ数学者にとっては1615年に著わされた『酒樽の幾何』の方が印象的かもしれません。この中で回転体の求積が無限小解析的な問題として取り扱われており、加えて最適問題にも及んでおりました。これはアルキメデス風「厳密性」を蔑ろにしたとしてこの後1世紀以上論争を呼ぶのですが、この時瞬間「微積分学」は始まったのかもしれません。
この後ケプラーは宗教による迫害を受け決して幸せと言えない人生を送るのですが、この占星術師の残した数々の発見は数多くの天文学者・数学者を惹きつける事となりました(ケプラー予想とかね)
5. ウィリアム・ローワン・ハミルトン
ウィリアム・ローワン・ハミルトン(William Rowan Hamilton) wikipediaより引用
ハミルトンは上記2人より時代が後の19世紀前半のイギリスの数学者、物理学者で早熟の天才として歴史に名を残しております。このハミルトンの職業は「ダンシンク天文台長兼天文学教授」でした。学部学生時代にこのポジションを推されるというまさに前代未聞な業績を持っていたハミルトンは、当時大学にフェローとして残りながら数学教授の道を模索していましたが、それに伴う授業負担と人間関係のしがらみを天秤にかけた結果、天文台長への就任を決意したそうです(家族と住めるスペースがあったのも選んだ理由だそうです)。ただご当人、観測は助手任せ、データ整理は姉妹任せと本務を丸投げにして数学研究に没頭したそうですからまったくもって羨ましいポジションですね。
光学への数学の応用「光線系の理論」、それの力学系へ拡張したハミルトニアン、数学理論による自然現象の予言(双軸結晶の屈折光線に関する減少の予言)、ヤコビとのハミルトン=ヤコビ方程式による解析力学の創始など前半生の業績は非常に華々しく、当時「ニュートンの再来」と呼ばれる程評判が高かったそうです。
ちなみに中背でしたが体操と水泳で鍛えた体と、聡明な印象を与える青い目、陽気な笑いとウィットな感覚を持った彼は社交界でも引っ張りだこだったそうです。現代で表現するならパリピでリア充ですね。
カール・グスタフ・ヤコプ・ヤコビ(Carl Gustav Jacob Jacobi) wikipediaより引用
ハミルトンは解析力学の理論構築は専らヤコビにお任せして、当人はある意味ライフワークとなる四元数の研究に没頭していきました。
ニュートン的時空を支配する表象獲得することを夢見て十年程を経た1843年10月16日、愛妻と散歩中ブルーム橋にさしかかった所でついに四元数の概念に到達しました。やっと訪れたその啓示を橋の石に刻み込んだそうです。四則演算を保存しない四元数は極めて斬新なアイデアで、その後の代数学全体に多大な影響を残した。
ブルーム橋と四元数の概念に関する碑文
※文章は↓
Here as he walked by
on the 16th of October 1843
Sir William Rowan Hamilton
in a flash of genius discovered
the fundamental formula for
quaternion multiplication
i² = j² = k² = ijk = −1
& cut it on a stone of this bridge.
この偉大な発見をきっかけとして<行列代数>、<グラスマン代数>といった代数系が発見されました。また四元数の発見を「デカルトの座標幾何に匹敵する」と謳ったマクスウェルは電磁場理論に応用し、その論文を検討したギブスは四元数の積の観察からベクトル解析を編み出し、物理学に大きく貢献しました。
お気づきの方もいらっしゃると思いますが上記の素晴らしい業績は19世紀後半以降です。発見当初は期待したほどの反響を呼ぶことはありませんでした。彼自身物理への画期的応用を目指しましたが成功しませんでした(当時では検討する材料と人が足りなかった可能性あり)。実用化を検討した20年の大著『四元数講義』は700ページを超えて難解と評され、数学者ド・モルガンや天文学者ハーシェルらによって「要約を書いてほしい」という要望に応えた『四元数の基礎』は800ページに達し、生前に出版される事はありませんでした。誰にも理解されず討議する相手もいなかったので、すべてを自ら発見し証明しなければならなかったのは大変つらいものだったと思われます。
晩年のハミルトンは、アルコール中毒に溺れながら独り数学研究に没頭し、痛風に苦しんだ末に1865年にダブリンの自宅で息を引き取りました。ハミルトンの部屋には食べかけの肉片がこびりついた羊の骨と、酒と肉汁にまみれた二百数十冊のノートで埋め尽くされており、このノートにはには正しい物、誤った物、判断のつかない物が入り混じった数式で埋め尽くされておりました。
これ程までに人生の前半と後半で大きく変わる人物は印象的で、ただ一人の理解者・支援者がいればまた変わっていたのかもと思ってしまいます。
6. 最後に
今回は個人的に印象に残る日曜数学者の人生を紹介させていただきました。誰もが激しい人生で”日曜”から受けるイメージとはかけ離れている感は否めませんが(汗)、誰もが強い情熱をもって数学に取り組んでおり、自身のライフワーク(趣味)であるがゆえに妥協しないという姿勢が感じられます。この姿勢を習い私自身学ぶことを続けていきたいと考えております。このような長文にお付き合い、誠にありがとうございました。
参考資料
『心は孤独な数学者』
森毅 『異説 数学者列伝』